『がんばって小さな会社の社長』
■著者  奥寺優子
■発行 舵社
■定価 1500円(税別)


本のあらまし

日本航空を25歳で退社し、女性アントプレナーの道を選んだ著者(奥寺優子)が、夫と共に飛び込んだのは全く畑違いの「建築業界」。本書の前半では準備期間から独立、顧客開拓、取引のトラブルや雇用問題、バブル崩壊などを経て、リスクマネジメントや新たなソリューションを確立してゆく過程を描く。後半は中央大学や新規事業、実際の現場で学んだ経営理論を分かりやすく伝え、その確信と真実に迫ろうとする。著者が、自身の一貫した経営哲学から見出した「美しい経営」という事業理念を、建築業界以外にも広く提言を試みようするビジネス書であり著者の半生記。

  • 第一章 建築業界に入って
    • 創業の頃/昭和58年株式会社丸和と改め代表取締役となる/この業界で驚いたこと/知識を得ること/雇用の失敗の数々/バブル崩壊/戸田作業場の立ち退きと新事務所・工場建築で新たな苦悩

  • 第二章 リスクマネジメント
    • 伝言ゲーム/FAXの効用と返品禁止/顧客との取引停止/倒産工務店のパターン/一般的な諾成契約/PL賠償責任保険加入/セクシャルハラスメント

  • 小さな我が社の経営
    • 真実のソリューション/実践 売上アップ作戦/チェックリストの作成/CAMEL方式による財務チェック/自分の力でMECEによる問題解決チェック/現場管理と工程管理/在庫管理/パースでやっと体感した経営理念/OJTについて/高齢化対策

  • 建築業界の未来
    • 問われる職人の価値/CRMを目指し顧客管理を提案/ユーザーソリューション/未来のトレンド/製品開発と今後の住宅営業/住宅関連製品の開発/セラミックスを使用した空間/活性化ルームのFC企画

  • 経営と方針の理念
    • 美しい経営/健康であることが最も美しい/美しい経営はユーザーセレクト/会社が倒産する危険なポイント/経営大原則
独立準備、開業。そして・・・

昭和50年6月。
私は航空会社のカウンター勤務、夫は建材の商事会社というサラリーマン生活を共に一度捨て去り、起業独立の準備を始めた。夫29歳、私25歳の時だった。夫はサッシガラス店を経営したいといってどうしても譲らないので、私は旅行代理店を目指したが妥協した。そのときは若くて頑張り屋の私は何とかなるし、何とかする、という強い決意だけが唯一のエネルギーだった。しばらくの間(約2年になるが)夫は八王子方面のガラスサッシ店に見習の形で入社させていただき、2年後には自分の店を出すという了解を得て、そこでガラスサッシのことを全く一から勉強させていただいた。私はその間トラベルコンサルタントをしながら経理を通信教育で学び、少しだけ簿記に通じた。屋号は夫が以前勤めていた会社のお得意先の中から選び出し、丸く平和にという意味で丸和商事とした。

独立して3か月ごろだったろうか。紹介で新しい工務店さんと取引することになった。現場は埼玉の田舎のバッティングセンターであった。全てオーダーサッシで指定納期に間に合わせる為明け方まで組み立てを手伝った。午前3時ごろサッシは見事に組みあがり、納期に間に合うように夫がその日のうちに遠路配達した。何事もないはずだった。ところが、しばらくして約定どおり請求書を出した頃、急にその工務店から「悪いけど請求書をうちの上の工務店に回してもらいたいんですよ」と意外な電話があった。私は即座にやられたなと思った。我が店はなんと5次下請けだった・・・・。

丸和商事から株式会社丸和へ

昭和53年頃からお取引し58年頃にかけて我が社で一番のお買い上げだった工務店様があった。飛び込み営業でお取引した会社の部長はとても私を贔屓(ひいき)にしてくださって、たくさんお買い上げくださり、御愛顧してくださった。その後しばらくするとその会社は当社に発注しなくなった。ビルサッシの対応があまりよくないというのが表向きの理由だった。しかし双方が一軒で売買の殆どを占めることの経営的な危険性を感じていたのと部長と他の監督さんたちとのコミニュケーションの欠如も要因の一つだったと思う。こちらにしてみれば野丁場的なビル現場は労多い割には全く利益にならなかった。ちょっと打ち合わせで間違いを犯すとたちまち赤字となった。そこで私は賭けに出た・・・。

40歳で大学に学ぶ。株式会社丸和からマルコーポレションへ・・・

世間では好景気のため自社ビルを建てたり従業員をたくさん入れて拡大していく販売店が目についた。私といえば拡大するのは簡単でも消費不況になったらすぐに縮小できるのか心配だと思い拡大できなかった。自分の気持ちは後ろ向きになっていた。景気が良いのに拡大することもできず、人の問題でも失敗ばかりで私は自分の無能さにあきれてしまっていた。何か空しさばかりが脳裏をかすめていた。そんな時経営者向けの本をたくさん買って読みたくなった。しかし私には本をきちんと理解できる本物の体系的な知識が足りないような気がし、そこで学生としてもう一度やりなおしたいと切に思うようになった。とにかく大学で体系的に経営や法律を学びたい。私は一念発起し、中央大学法学部通信教育学部に入学した。それからの毎日は午前5時に起床し午後9時までと夜は9時から12時まで勉強に明け暮れた。

卒業してからわかったことは会社の資産に隠れ損失が発生していたことである。その後、私は株式会社丸和をマルコーポレーションと改名した。マルコーポレーションとはメタリックオブアルミニュームオブライフノMALの意味である。コーポレーションとしたのは将来多角的に経営できればしたいという私の希望からの命名だった。

バブル崩壊、不況、新事務所移転・・・

平成9年頃急に資金繰りに困った社長が「悪いけどね手形を切るけど」とお電話下さった時は、すでに1000万円近くの仕事を請けた直後のことだった。私は覚悟を決めた。仕方がないがやられたかもしけれない。その予感は的中して手形は見事不渡りとなり、1100万円が紙切れなって散った。深いため息と共に私は空を見上げたままだった。社長に2号さんがいたのだとか株で損したとか、他人にお金を貸して戻ってこなかったとかで損したのだとかいろいろ変なうわさが流れた。

思い出いっぱいの戸田の作業場の大家さんから事業の都合で立ち退いて欲しいとの依頼がきた。私は三方角地の立地条件の良い土地を手に入れこれから新社屋でも建てようかと計画していた矢先の戸田の立ち退き請求の偶然性に全く驚くばかりであった。願ってもない幸運だと考えていたのだが、神様はその幸運と同じぐらいの重さの不幸を私に与えたのである。一つは建築に当たっての一握りのご近所のバッシング。もうひとつは工場を建築するための資金を銀行が最終的に断ってきたことである・・・

YKKの3Dパース制作CADを導入

「社長、パースにご興味がおありですか。実は今YKKで開発した三次元パースのコンピューターがあるのですが両国の展示場にお越しくださいませんか。お気に召していただけると思います」。当時はバブル崩壊後の後遺症で顧客は大変苦しんでおり、売上やご発展をご支援できるのか、また我が社がどうしたらこのままジリ貧になるのを救えるのか毎日模索していた。そして手書きパースを見習いに行って何とか生き残る道を探そうともがいていたのだった。そして私が両国で見たものは驚きと感動に他ならなかった。オペレートとしてご説明くださったのはI氏であった。大きなモニター画面の中に建築の平面図を書き、部品やを入れ、壁や建具を入れて簡単に操作すると、何とたちどころに立体的な住宅が出現したのである。私はそのスピードと美しさに感動してワーッと歓声を上げた。私はこの感動がきっとお施主様や工務店様に通じるはずだと確信を持った。夢を与えられる経営をしなければこのくらい不況に立ち向かえないだろう。価格を聞いた。「一千万円です」一瞬驚いたが、それでも買わなければいけないと思った・・・

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